イナリサーチとは、糸島芸農の開催地区にある松末権九郎稲荷を中心に、松末地区に伝わる農耕儀礼た伝承等のリサーチを行うプロジェクトです。このプロジェクトをもとに秋の芸術祭へと発展させていきます。
松末権九郎稲荷縁起
糸島芸農2014コンセプト
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稲成・稲鳴・イナリ・稲荷・いなり
古代の人々は、すべての穀物には神が宿ると考えた。
米を実らせる稲にも、その生育や豊作・不作を左右する神が宿ると考えた。
あらゆる食物を司り、稲の成育を守護する神
人々は、春になると山から下りてくるこの神を迎えて豊作を祈り
秋に収穫を終えると、初穂を捧げて感謝した。
この神は、秋の収穫祭の後、再び山に帰ってゆく。
山と里を往復するこの神こそが、稲荷神の本来の姿である。
稲荷の歴史
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「お稲荷さん」と聞いたとき、たいていの人はあまり良い印象を持たないであろう。キツネ、妖怪、狐憑、憑き物、祟りなどを連想し、邪悪なイメージを持つ方が多いと思う。しかし、稲荷様を祀った神社は全国至るところにある。民家の庭先やビルの屋上など、小さな祠を見かけることはとても多い。赤い鳥居に赤い祠、磁器で作られたキツネの御神体が、祠の中に置かれている。特に、商家や漁師町では必ずといっていいほど稲荷を祀った社があり、商売繁盛や大漁祈願などの神様としても崇拝されている。以前、東京に行った際、都心の至るところに稲荷社があって多くの祈願者があり、その中には芸能人など芸に携わる人達が祈願していたのを記憶している。
さて、お稲荷さんとはどんな神様なのだろうか。稲荷という字の語源を考えると、「稲がなる、稲鳴、荷が稲でいっぱいになる」など稲に関係があり、もともとは農耕の神として信仰されていたが、次第に商売繁盛の神とされていった。 古代の人々は、すべての穀物には霊力が宿ると考え、稲には稲魂が宿ると考えた。 稲魂とは、稲に宿ってその生育や豊作・不作を左右する霊力である。 人々は、古くから春に田の神が山から下りてくるのを迎えその年の豊作を祈り 秋に収穫を終えると、初穂を捧げて神に感謝した。 また、田の神と一緒に捧げた初穂を食べることによって、稲魂を自らの体内に宿し 力を得ることができると考えた。 田の神は、秋の収穫祭の後、山に帰る。 神様が山と里を往復するときの先払いを勤めたのが狐であり、狐は田畑を荒らす害獣を食べるので田畑の守護神として祭られてきたのである。
松末稲荷の場所
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さて、九州北部に位置し、東に福岡市、西に唐津市に挟まれた糸島は、海峡を挟んで朝鮮半島や中国大陸と近く、古くから大陸との窓口として繁栄してきた。糸島は、大きく分けて二つの地域に分けられ、玄界灘に突き出し、平野部が少なく低い山が点在する半島の「志摩」地域と、井原山を最高峰とし、雷山や浮嶽など900m級の山々が屏風のようにとり囲み、平野を擁する「怡土」である。この「怡土」と「志摩」の二つの地名は、奈良時代に成立したとされ、明治になってこの二つが合わさって「糸島郡」と呼ばれるようになった。特に、弥生時代中期頃には、古代国家「伊都国」の王都が存在し、邪馬台国の女王卑弥呼よりももっと昔から代々王が治め、数多くの銅鏡や装身具、朝鮮半島や中国、日本各地と交易してもたらされた数々の物が多く発見されている。
私たちが、糸島芸農のメイン会場としているのは、二丈一貴山・深江地区である。この地域は、西に深江湾と北に加布里湾という静かな湾を控え、深江地区には蔵米の津出し港ともなった深江港、そして、街道にそった場所には宿場町である深江宿と漁村がある。南には標高約700mの二丈岳を中心とした山々が連なり、山と海に挟まれた広大な平野では、春の麦、秋の稲が一面に広がり、山、海、里山、町場、農村、漁村が非常に狭い範囲に凝縮された場所である。
その中の一村である松末村は、南側に広い水田が広がり、北側の加布里湾に接するところに低い山が連なり、その山裾に数件の民家が並んでいる小さな村である。東西に街道が走り、街道に並行して羅漢川が蛇行しながら深江湾にそそぐ。松末村は、近世は幕府領を経て豊前中津領に属した村で、村のすぐ東を流れ加布里湾にそそぐ川を境に濱窪村が隣接する。濱窪村は、幕府領であったが江戸末期に対馬領に替えられた村である。
松末村には、村内にある天満宮を中心におおよそ普通の村の姿であるが、周辺の村とは少し異なる景観がある。それは、稲荷社があることである。稲荷は、普通の民家にも屋敷神として多く祀られているが、松末村には山の斜面に大きく二つの稲荷社があるのである。権九郎稲荷と五郎稲荷がそれである。
両稲荷社を見てみると、巨大な鳥居や立派な社殿など、半端な金額では到底建造できないものが多く、ある時期にかなり繁栄したことを物語っている。しかし、松末の両稲荷社がいつ頃から祭祀され始めたのかについては不明で、明治五年に編纂された『福岡県地理全誌』にその記載はなく、明治33年の測量図にも社の印がないため、聞き取りにより、その真意を確かめることにした。
松末権九郎稲荷について
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普通、地域の歴史を調べるには、まず最初にその地域の『市町村史』を見る。この地域であれば『二丈町誌』であるが、松末稲荷についてはほとんど調査がされておらず、稲荷を祀っている方々から聞き取りをして記録することにした。松末権九郎稲荷を祀る松崎秀典さんや松末の樋口一夫さん、松末五郎稲荷を祀る松崎周子さんらに、なぜこの地に大きな稲荷社が祀られたのかについて詳しく聞いてみた。すると、聞き取りによってだんだんと分かってきた。
松末村のほぼ中心にある天満宮の東側に松崎本家がある。この家の数代前の松崎豊太さん(明治の生まれ)は全盲で、あるとき突然稲荷神が憑依し、現在の松末権九郎稲荷の場所で代人(稲荷神からの声を告げる人)として祭祀を行っていた。なぜ、この場所が選ばれたかは不明であるが、現在、この場所の裏山に登ってみると、山上には大きな岩が点在し、山上にある愛宕社も山中の稲荷社も社殿の裏には大きな石があることから、この岩を御神体として祭っていたのではないだろうか。特に、権九郎稲荷社は、京都の伏見稲荷大社を勧請したといい、伏見稲荷の起源が、御祭神である宇迦之御魂神が、本社奥にそびえる三ケ峰の山上に降臨したことにちなむことから、同じように松末の稲荷も山上の岩を御神体にしたのではないだろうか。
松末権九郎稲荷の上宮は、山頂付近の「曲がり松」という場所である。以前ここには、曲がった松があったのでそう呼ばれているが、現在はシイなどの雑木林となっている。山頂にある愛宕社からみて一段下に位置する。ここには現在でも社が残っている。以前は、正月は山に登って神事など行っていたそうである。山中には権九郎稲荷が伏見稲荷とのかかわりを持つ石碑が建っている。石碑には「七くくり、八めくり、志貫いて祈るなり。伏見な神を松末にてまします。」と記され、昭和36年の鞴祭り(12月8日)に伏見稲荷本社より第一回幣饌使が来たことを記している。その際、麓の社殿を新しく建てたがすぐに焼失してしまったという。
松崎秀典さんのお母さんが小さかった頃、松崎豊太さんが権九郎稲荷で「かんがえ=交霊」をされていたのを真似して遊んでいたら、追いかけてこられた(豊太さんは目が見えないのに)という話も聞いたので、最初の祭祀場所は権九郎稲荷であった。代人である松崎豊太さんが亡くなられた後、権九郎稲荷では東村の柴田八兵衛さん(2年ほど前に101歳で亡くなられた)が代人として来られていた。神様が人に乗り移ることを「御下がり」といって、御下がりになった際は座布団の上で飛び跳ね、声が変わっていたという。また、権九郎稲荷には、小富士にある「陽徳様」も合祀しており、松崎秀典さんが中学の頃に、真夜中に行列を組んで運んだことがあるが、「今から御霊が入ります」と行った際、輿がズシーンと重たくなったという。奉納されている鳥居には、福吉や加布里など漁師が多く寄進しており、話によると入江さんという代人さんが来られてからは漁師が多く来るようになったという。
松末五郎稲荷について
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松末村の山の斜面に張り出した赤い懸造りが印象的な稲荷は松末五郎稲荷と呼ばれている。それまで主に権九郎稲荷で祭祀を行っていた松崎豊太さんは、昭和7年9月13日に松崎本家の裏にある大岩を祀るようにとのお告げがあり、そこを権九郎様と呼ぶようになったという。その後、境内地は裏手の山の方にだんだんと広がっていったそうだ。
現在、鳥居を潜って左にある最初の社が権九郎様と呼ばれる稲荷の御神体で、大きな岩の前に社が建てられている。それより階段を登った場所には朝日大神(朝日稲荷)を祀る。そこから直進すると三九郎様という稲荷となる。三九郎稲荷は農耕の神で牛や馬などの神像が多く寄進されている。そして、山の中腹にある広い敷地が五郎稲荷である。
今回、聞き取りしたのは、松崎本家の松崎周子さん(78)である。麓にある自宅から階段を上った本殿まで毎日登って掃除をしている。神殿の脇には、五郎稲荷を祀る穴倉があった。その中には狐ではなく牛の像が安置されていた。
五郎稲荷は、12月8日に行われる鞴祭りの際、目隠し女相撲が行われているので有名である。目隠し女相撲は、五郎権現大神のお告げによって奉納されるようになったと云われ、人間正世界の一寸先は闇、即ち計り知れない世界であって世渡りの難しさを目をかくして相撲を取ることの難しさに例えられたものであるという。力士は信仰厚き婦女子で男性は参加できないという。元来、鞴祭りとは鍛冶屋が使う鞴(火に空気を送って温度を上げる送風機)を祀る行事である。陰暦の11月8日に鍛冶、鋳物師は仕事を休んで商売繁盛を祈願する事を目的としている。鍛冶の神である金屋子神は女性であることから、同じく女性の神である稲荷神と結びついた神事であろうか。また、松末の山の山頂に祀られている愛宕社は、火山霊尊というイザナミが出産の際に身を焦がして亡くなられたという火の神様を祀る。そのようなことを考えていると、稲の神から稲作の道具である鉄をあやつる鍛冶、そして鍛冶は火使うことから火の神ということを連想する。この一帯が、玄界灘沿岸で稲作が最初に伝わった場所としての事を思わずにはいられない。
さて、稲荷には、代人という稲荷神と霊的なやり取りをする人がいた。霊媒を介して、その代人の口を使って神仏や霊魂が話をするという。代人である松崎豊太さんは、あらゆるものを言い当て拝殿には多くの参拝者が来ていたという。いろいろな相談事を聞くために多くの人が拝殿に並んでいたそうだが、あまり良くない事の時は、人前では言わず、「今日は帰りなさい」と言われていたという。現在、その拝殿に上がってみると、豊太さんの写真が飾られていた。その中の1枚に、鯛を釣っている写真があった。話を伺うと、豊太さんは魚釣りがとても上手で、糸がもつれた際も目が見える人より上手にほどいていたという。
イナリウォーク
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「松末権久郎稲荷」の裏には田の神が住んでいたと言われている山があります。その山を様々な分野のエキスパートと歩きながら新しい発見を行うイベント「イナリウォーク」を開催します。
第一回 5月10日(土) 手塚夏子(ダンサー)
第二回 5月31日(土) 河合拓始(即興演奏家)
第三回 6月 牧ひろあきさん(狩猟家)
第四回 7月 岸井大輔(劇作家)
第五回 8月 有田和樹(歴史研究家)
イナリサーチ途中経過
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【記事】
・3/1 第一回山歩きの記事
・3/9 初午の大祭の記事
【動画】
・3/1 第一回山歩き
・3/8 初午の大祭炊出し
展示会場(案)
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共同倉庫前
権久郎稲荷
稲荷山・社1
稲荷山・社の前
稲荷山・社2
稲荷山・林の中1
稲荷山・林の中2
稲荷山・林の中3
稲荷山・参道1
稲荷山・参道2
稲荷山・参道3
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