芥屋大門(けやのおおと)

歴史×糸島

以前、神奈川県三浦半島で育った知人が、糸島を訪れた際、「なんか懐かしいです、特に芥屋漁港なんかは、房総の三浦に似ていて」と言っていたのが印象に残っている。近年、糸島には、関東から移住してくる人が多いようで、その方たちに糸島の印象を聞くと、三浦半島や鎌倉周辺と似ているという返事が返ってくる。まだ行った事のない三浦半島を想像しながら、糸島半島の最西端にある芥屋を巡る。

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芥屋は、古くは「久米郷」と称され、「鶏永」という地名も残る。国の特別天然記念物に指定されている芥屋大門は、玄海国定公園の中でも名勝奇岩(六角形や八角形の玄武岩柱状節理)として全国的に知られる日本最大の玄武岩洞であり、高さ六十四メートル、奥行九十メートル、間口十メートルの洞窟で、神秘的な景観を呈している。洞穴は海に面しているため海上からしか眺めることができず岩窟そのものが「大門神社」として信仰の対象となっている。

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「天岩戸の入口」であるとか「竜宮の入口に通じている」、「元寇の際の神風は雷山の風穴から地下をくぐって大門から吹き出て元寇を殲滅させた」など様々な伝説が残っているのも、漁師や玄界灘を航海する人々が安全を祈願してのものであろう。大門の東側に連なって鯨岩、鏡岩と呼ばれる岩があり、古い伝説には、昔、鏡岩の上に数人の天女が空から舞い降り、鈴を鳴らすような美しい声で合唱でいたとき、そのうちの1人が興に乗って、禁じられていた下界の俗謡を歌ったところ、その天女の神通力は失せ、下界の女に変わり、悲願に暮れて身を投げ鯨岩の下に住む鯨に食べられてしまったという。鏡岩あたりで音律が聞こえた時は、決まって大荒れ、大嵐がおこり、時には地震や津波が起こるという。自然に対する畏怖の念が大門を信仰の対象としてできた伝説であろう。

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大門の頂上には、戦後すぐまで大きな松が立っていた。江戸時代に描かれた絵画や明治期の写真には、この松が描かれ、糸島郡岩本出身で、太宰府の南画家吉嗣拝山に師事し、武蔵温泉(現在の二日市温泉)に居住した藤瀬冠邨の作品にも芥屋大門と松を描いたものを見たことがある。現在この松は無い。また、江戸時代を代表する禅僧であり、書画をよくした事で知られる博多の仙涯は、文政九(1826)年と天保五(1834)年に芥屋大門を訪れたことが知られ、現在と同じように、船で岩窟の中に入り、柱状節理の様子を細かく描いている画が残っている。

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現在、芥屋大門の裏側は、公園になっていて、大門を北側から見ることができる。ここの海岸は、大門とおなじ岩質でできた岩が、波によって丸く玉石のようになっている。潮をかぶると真っ黒になるこの海岸は「黒磯」と呼ばれている。

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この絵図は、福岡藩の御用絵師衣笠半太夫が描いたもので、角柱の玄武岩の様子が詳細に描かれている。(糸島高校郷土博物館所蔵)実際に船で付近まで行き、描いたものであろう。下の絵図には大門の左に「番所」と記された建物が描かれている。江戸時代、ここには不審な船を監視する遠見番所があった。番所があったとされる場所に行ってみると、現在は小さな展望台が設置されている程度だ。しかし、幕末に野村東望尼が流された姫島や、時には遠く壱岐まで望むことができる。糸島半島の西北端はこんな風景が残っている。

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